「正しさ」が支配する時代に、「誤ること」の意味を問い直す
私たちは今、かつてないほど「正しさ」に取り囲まれて生きている。SNSでは不適切な発言が即座に糾弾され、AIのアルゴリズムは最適な選択肢を絶えずサジェストしてくる。誤りは排除されるべきものであり、効率的で合理的な判断こそが善である——そうした空気が社会の隅々にまで浸透している。
東浩紀の『訂正可能性の哲学』は、まさにこの時代の空気に正面から抗う一冊である。本書の核心にある問いはシンプルだ。人間は誤る存在であり、その誤りを訂正しながら生きていく——この当たり前の事実を、なぜ私たちは忘れてしまったのか。そしてこの「訂正可能性」という概念が、分断と人工知能の時代にいかに重要な意味を持つの
過去の哲学を「訂正」する実践
本書の魅力は、訂正可能性という概念を提示するだけでなく、東自身がその実践を本書のなかで遂行している点にある。ウィトゲンシュタインを、ルソーを、ドストエフスキーを、アーレントを——過去の思想家たちの著作を大胆に読み替え、従来の解釈を「訂正」していく手つきは、読んでいて知的な興奮を覚えるものだ。
とりわけ印象的なのは、アーレントの公共性論の再解釈である。アーレントは公共性を「現れの空間」として開放的に定義する一方、「共通の世界」として持続的にも定義した。この二つの定義の緊張関係に、東は訂正可能性の問題を読み込む。公共性とは、固定された理念ではなく、絶えず訂正されながら持続していくものなのだ。
また、東はルソーの小説『新エロイーズ』を手がかりに、理性と感情、公と私の二項対立を超える道筋を探る。哲学者としてだけでなく小説家としてのルソーに注目することで、論理だけでは捉えきれない人間の複雑さ——それこそが訂正可能性の源泉でもある——を浮かび上がらせている。
「誤り」を前提とした社会へ
本書が最も力強いメッセージを放つのは、訂正可能性を欠いた社会の危険性を指摘する箇所だ。訂正が封じられた社会は硬直し、全体主義へと近づいていく。AIによる最適化が進むほど、私たちは「常に正しい」判断に包囲され、訂正の余地が失われていく。しかし「正しさ」は時代とともに変わるものであり、その変化を生み出すのは人と人との対話であり、試行錯誤の積み重ねである。
東はこう述べる——人間は絶対的で超越的な理念を、相対的で経験的な事例による「訂正」なしには維持できない。だからこそ、民主主義の理念を理性と計算だけで、科学的・技術的な手段だけで実現しようとしてはならないのだ、と。
おわりに——訂正し続ける勇気
『訂正可能性の哲学』は、1993年のデビュー以来30年にわたる東浩紀の思索の到達点であると同時に、それ自体が「訂正」の産物でもある。『存在論的、郵便的』から『動物化するポストモダン』、『一般意志2.0』、『観光客の哲学』へと至る著者自身の知的遍歴を振り返り、修正し、新たな地平へと開いていく本書は、訂正可能性という理念そのものの体現にほかならない。
人は誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ。——このシンプルだが力強い認識が、分断と最適化の時代を生きる私たちに静かな勇気を与えてくれる。
